笑う門には福も来る

鈍間な主婦の気儘で憂鬱で有頂天な日常。

「弥勒の月」 「夜叉桜」 / あさのあつこ






弥勒の月」 / あさのあつこ











 小間物問屋「遠野屋」の若おかみ・おりんの溺死体が見つかった。安寧の世に満たされず、心に虚空を抱える若き同心・信次郎は、妻の亡骸を前にした遠野屋主人・清之介の立ち振る舞いに違和感を覚える。―この男はただの商人ではない。闇の道を惑いながら歩く男たちの葛藤が炙り出す真実とは。




 あさのさんの 時代小説です。



 ワタシは個人的には かなり時代小説が好きなので

 とっても嬉しかった!!! (^^)/



 謎解きもですが、その二人を中心にした 内面を

 彼女特有の 文体で表現されていて・・・・  引き込まれます。



 結果的には、そのどちらの 過去にもつながる「真実」があり、

 背負わされる 荷は、余りに 重すぎるような、切なさが残りました。




 そして、ラストは、おりんと清之介の 出会いの場面。



 やっと掴んだ、手に入れた幸せを

 己の 「過去」 が  奪ってゆく・・・・・




 これからどうなるのか、考えられないほどの 思いを 抱きました





 そして、今回読んだのは  その続編・・・













「夜叉桜」 / あさのあつこ











「生きるという、ただそれだけのことが何故にこうも不自由なのかと、思うことがございます」江戸の町で、女郎が次々と殺されていく。誰が、何のために?切れ者ゆえに世にいらだつ若き同心・信次郎は、被害者の一人が挿していた簪が、元暗殺者の小間物問屋主人・清之介の店『遠野屋』で売られていたことを知る。因縁ある二人が交差したとき、市井の人々が各々隠し抱えていた過去が徐々に明かされていく。生き抜く哀しさを、人は歓びに変えることが出来るのか。




 「弥勒」 そして 「夜叉」

 この二つの 言葉が 何度も表現の中に散りばめられていて

 ワタシの中の 「夜叉」 を、探してしまいそうになります。





 同心信次郎についている岡っ引き伊佐治は 清之介とのやり取りを思い出す
わたしにとって、おりんは、弥勒でございました。
弥勒・・・。
そういう女でございましたよ。遠野屋と交わした短い会話を思い出す。人と言う生き物に思いを馳せるたびに、浮かんでくる言葉だった。
弥勒にも夜叉にも、鬼にも仏にもなれるのが人なのだ。身の内に弥勒を育み、夜叉を飼う。鬼を潜ませ、仏を住まわせる。





 そしてまた、最後には こうも思う。
人は誰もが夜叉を飼う。
よく分かっている。
弥勒にも夜叉にもなれるのが、人という生き物なのだ。ときに弥勒、ときに夜叉。いや・・・
仏と鬼の真ん中に人はいる。それはまた、仏でもなく、鬼でもなく、仏にもなれず、鬼にもなれず、人は人としてこの世に生きねばならぬということなのかもしれない。






 みんなが きっとそれぞれ 何かを持っていて

 「人」として生きようとしている。




 いま、見えているものが きっと全て。

 そう思って 生きてゆかなければ 、 みんなの中の「夜叉」を

 探してしまいそうになる・・・



 「人」に切なくなり、 「人」を愛しいと 思える。



 前作から 生きる場所を「遠野屋」と決めた 清之介の悲しみ。

 時折描かれる 彼の心の内に、胸を突かれます。




 また続いてゆきそうですね。

 少し登場した 実兄との事が、そのままです。



 楽しみなようで、少し怖い気もします。

 どうなったところで 清之介に 「安らぎ」は 無いような気がします

  

 おりんを 失ったのだから。